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PALETTECLUB特別企画 原田治のイラストレーション展

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日比野といえばダンボール。相当なコピー&ペーストを繰り返したイメージが世の中にあって、それを手づくりで、ダンボールで組み上げていくやり方がひとつの手法となり、それを日比野さんが打ち出すと。それでブームになる。日比野克彦ブーム、イコール、ダンボールブームですから。ぼく学生だったんですけど、まずこれに驚いて最初に行ったのがダンボール拾いに行ったことです(笑)ダンボール拾いに行って、そこに絵を描いてカッターで切ったりとかしてっできた!って、みんな同じことしてた(笑)。

日比野さん、最近はコミュニケーションアートという分野で活躍されています。ダンボールは違う用途として、自分の表現活動の一部として理科の実験や工作のようなことを行っています。朝顔の種を植えてそれが育って花が咲いて。また種ができて、それをまた違うところに持っていって…植えて、また花が育つ、という循環を繰り返しおこして作品にしていると。金沢の二十一世紀美術館だったかな。作品として展示されていました。朝顔が蔦にからまっている様子とか、朝顔の種の舟をつくったり、その舟を浮かしてみたりとか。日比野克彦が出た当時からの段ボールを主体とした創作は、今の活動の一部になっているというイメージです。


さて、80年代のコンペブームで、これが広告業界に直結します。それが日比野克彦によってと、いうことだったんですね。さっき『ダイアモンド・ママ』っていうグループ展紹介しましたよね。その時代に同じグループ活動をしていた人たちがいます。そのひとりが、谷口広樹。このころはタニグチヤスヒコって言ってました。この人、実は、日比野克彦の次の年に『グラフィック展』の大賞を取るんですね。そして田中紀之。この人は日比野克彦の次の次の年に『JACA』の大賞取ってイラストレーション誌載ります。後輩の伊勢克也という人が第5回のグラフィック展の大賞取ります。みんな東京芸大出身なんですよ。藤掛正邦、ひびのこづえ(当時内藤こづえ)など、東京芸大出身の人たちでこれをひとつのグループにしてね、本人たちが認めていたかどうかは知らないけれど、『芸大旋風』という名前がつけられていた。イラストレーション誌でも特集されました。

ひびのこづえさんは衣装制作などをよく担当されています。田中紀之(タナカノリユキ)さんは当時、お名前は漢字でしたが今カタカナです。タナカさんはちょっと重要な仕事しています。沢尻エリカをプロデュースし、その展覧会を現代美術館でやったりしています。これぼく観に行ったんですけど、なかなかすごい、迫力ありました。会場はぜんぶ沢尻エリカ。そしてタナカノリユキがUNIQLOのCMを制作したことによって今のUNIQLOのイメージ戦略の中心となりました。

ベッドタウンの街道沿いに巨大モールが存在して、それがUNIQLOっていうイメージが当時あったはずです。これをタナカノリユキが柳井社長に呼ばれて、イメージを作り変えてくれと言われたんです。代理店、いたのかな?フリーランスで代理店とちょっと一緒に仕事していたのか、代理店に実際いたのか分からないですけど。それでつくったコマーシャルが全く違うものになりました。今のUNIQLOのイメージとさほど変わりません。新しいUNIQLOの路線によって、今のUNIQLOの基礎となります。それをアートディレクター佐藤可士和が引き継ぐということになっていきます。


「僕が描く原画は同じでも、組む人によって完成形が変わる。演出家と組めば舞台芸術になるし、ファッションデザイナーと組めばテキスタイルデザインになる。それが印刷媒体だとイラストレーションになる。そんなふうに考えていた。」日比野克彦の言葉です。実際にぼくがインタビューした時に言ったんですね。非常に、ある意味正しいことですよね。だから、イラストレーションとは一体何かという話に通じるんですけどイラストって「こういう絵がイラストなんだよ」「いやそれはどちらかというと絵画だよ」とか、そういう問題じゃないっていうことです。そういう問題じゃないってことを、日比野克彦が言っていると。もちろん違う見方もできますけどね。ここで言う、日比野克彦のイラストレーション論が、この割り切りが、日比野克彦を作ったと言ってもいいかもしれませんね。

日比野が言うようにイメージ広告や空間デザイン、空間イラストデザイン、舞台装置とか、あるいはこういう衣装とか、そういうものに拡張すると。で、日比野克彦は自分のことをアーティストというふうに名乗ります。だからね、それも無理のないことですよ。イラストレーターって名乗り方が、この仕事ぶりに合わないんですよね。僕ら学生でしたけど、非常に自然にそれを受け止めて実はここから“アート”という言葉が世の中に生まれる。もちろんそれ以前にもアートって言葉は使っていましたけど、定着し始めたのがこの頃ですね。

日比野克彦、こういうこと言っています。「アートはみんなでつくるもの」。これ、いつの言葉だったかちょっと忘れましたけど、最近になってからかもしれないですね。

もうひとり「隣のおっちゃんが喜んでくれなきゃ」アートじゃないって大竹伸朗が言っています。文脈的にアートじゃない、美術じゃないんですけど、こういうことを言っていると。世界的な現代美術の世界からは外れたふたりがこういうふうに言っている。おふたりの名誉のために言っておきますけれども、あえてやっているんですよね、こういう活動は。現代美術と言われるアートとは一線を画すアートを自分の手で起こすことをやっています。

80年代のコンペブームというのが、実はアート現象というものに繋がっていきます。

『東京ファンキースタッフ』、湯村輝彦さん中心に、という話をします。『東京ファンキースタッフ』が、イラスト新鋭作家展というのをやるんですね。「従来の広告の作法、常識を一気に破壊してしまったウマヘタのセンセーショナルの登場」という触れ込みです。この当時ね、まだヘタウマが定着してないんです。しかし、そのヘタウマがアートと合流するようなイメージがこの時代にあったんですね。

80年代アート現象は、イラストレーションの枠を超えて日本のビジュアルデザイン領域の全体を巻き込んだ一大現象だった、ということです。

そしていろいろと僕が持っているグラフィック展のカタログを探してみると…いるわいるわ、ビジュアル文化の担い手が。『日本グラフィック展』のパンフレット、カタログですけど、大竹伸朗が第1回のグラフィック展で入賞しています。祖父江慎も入選したんですね。寺田克也、この人も入選していますね。井上嗣也、この時はもう有名なアートディレクターだったんですけど、なんと、グラフィック展に出して賞まで取っている。ホンマタカシ、この時はまだ学生だったのかな。グラフィック展写真部門というのがあって、そこで入選しています。中ザワヒデキば自分で語っているので、彼が入選したの周知の事実ですね。中村政人、これはどういう人かというとですね、日本の現代美術の分野でオルタナティブアートの分野の親分感の人。中谷日出、この人を知っている人もいると思いますが、NHKの解説員ですよね、もう常連でした。それから渡辺良重、この人は今、KIGIのアートディレクターですね。植原亮輔とふたりでディブロスから独立してKIGIをつくっていると。北川一成、グラフ株式会社の社長さんです。今、美術の活動やっていますよね。佐藤可士和も入選しています。これは後期ですよね?88年か89年くらいと思います。ヒキタクニオは、今は小説家で『凶気の桜』というのが非常に売れて、映画にもなりました。僕と同時期に入選した、常連です。タナカカツキ、この人も常連でしたね。会田誠、これ名作ですけど『あぜ道』という作品は日本グラフィック展の入選作品なんですよね。すごく印象に残っていますね。

その他、グラフィック展以外どういう人がいるかというと、ナガオカケンメイ、天明屋尚、秋山具義、青木克典はアートディレクター、ヒロ杉山。この辺はイラストレーターなんで、僕と一緒なんですけど。関口敦人、この人はけっこうポイントなんです。日本の現代絵画の巨匠のひとりですね。こういう人たちが『ザ・チョイス』とか『JACA』とかに入選したりしています。佐野研二郎、この人は『ひとつぼ展』、えぐちりかもそうですね。野口里佳、蜷川実花もそうですね。それから川内倫子っていう女性写真家は『ひとつぼ展』です。石田徹也、この人も『ひとつぼ展』、亡くなった画家ですけどね。それから菊地敦己はアートディレクター、『ザ・チョイス』です。

で、何度も出しても入選できなかった佐藤卓という人がいました。それから村上隆、この人は自分は出さないで、人に出させて実験を繰り返していたんですよ。これ僕はよく知っているんですけどね。

佐藤卓さんの映像を最後に、この会を締めたいと思います。今、佐藤さんの仕事を見せていますけどね、これ『プロフェッショナル仕事の流儀』という番組で佐藤卓さんが出た回があって、そこで当時のグラフィック展などのブームを語っているので、ちょっとそれを見てみたいと思います。1分間くらいなんだけどこれで最後にしたいと思います。

ナレーション_しかしアートで生計を立てるというのは難しい。就職活動を始めた頃、偶然うけた広告代理店でデザイナーとして採用された。仕事は広告ポスターのデザイン。しかし新人は、文字の切り張りや写真の並び替えなど先輩の手伝いがほとんど。仕事と割り切ってはいるものの気持ちは満たされない。次第にアートへの想いがよみがえってきた。ときは80年代のイラストレーションブーム。仕事の合間に描いては、コンテストなどに応募した。

佐藤_世の中に認めてもらいたくて、そういうところに出すけどいっさい引っかからない。ショックなんですよ、落ちるんだから。結構ショックです、引っかかりもしないんだから。

ナレーション_その一方で大学の友人や後輩たちが次々と認められていく。なかには大々的に脚光を浴びる者もいた。

佐藤_世の中のスポットライト浴びて後輩が育っていくでしょ。もう何人も、何人ものひとが育っていくわけだから。なんか分かる?その気持ち。

都築_えーと、以上です(笑)

会場爆笑

都築_これは結構貴重な映像と思うんですけどね(笑)佐藤卓さんは90年代になって、電通時代のシングルモルト広告の仕事で非常に有名になりました。フリーランスになってからは日本を代表するグラフィックデザイナーになりましたね。
最後にまとめなんですけど『ビックリハウス』が1976年にできて、そのパロディの投稿コーナー、これは、日本の投稿文化なんですよ。投稿コーナーのひとつが『日本グラフィック展』に変化していくと。それがイラストレーションと写真の文化の両方応募受けるんだけれども、日比野克彦が出たことによって、しかも日比野克彦がアーティストを名乗ったことによって、ジャンルを超えちゃったんですよ。超えてイラストレーションだけの問題じゃなくなり、今、振り返ると今を代表するビジュアルクリエーションの担い手たちが、こぞってそこに応募し、しかもそれがキャリアになっていく。それで大手広告代理店に入ったりだとか入選や賞とると。そういうふうになって大きなひとつのうねりになっていったという、そういう話です。

実はここから先が面白いんですが、実は現代美術の巻き返しがあるんです。その話は今日はちょっと置いておいておきましょう。長くなっちゃうので。『ビックリハウス』から始まった日本の大き流れの最初に携わった原田治さん、ペーター佐藤さんの話から、日比野克彦に終わったという話でした。どうもありがとうございました。

 

 

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