石井ーーー「会場のファンの皆さんから質問をいただきましょうか」
原田ーーー「そうですね」
石井ーーー「なんでも結構ですよ」
原田ーーー「世間話でも何でもいいですよ(笑」
石井ーーー「はい、挙手で…、あ、土井さん、どうぞ」
(会場にいた) トムズボックス土井さんーーー「キャラクターの目の話なんですが、さっき何とおっしゃいましたか?」
原田ーーー「スライスカットです」
トムズボックス土井さんーーー「では、明らかにまん丸になったのは何年のことなんですか?」
原田ーーー「最初の4~5年くらいまでがスライスカットで、それ以後はまん丸ですね」
トムズボックス土井さんーーー「すみません、ありがとうございます」
伊藤ーーー「大事な点ですもんね」
原田ーーー「いつ頃がヴィンテージなのか、コレクターの土井さんに逆に聞いてみたいですね。(壁の多色使いの手描きのイラストレーションの拡大コピーを指差して)こういうのは一回しか使っていないのです。(白黒の線画の方を指差して)こういうのは何度でも使っています。色を使っちゃうと決まっちゃってるんで…」
石井ーーー「成る程」
原田ーーー「さっきも少し触れましたが、オサムグッズが出来たときに全国でファンシーグッズ屋さんも増えて、当時コージー本舗の先代社長がサイン会を開こうって、オサムグッズの置いてある店を全国津々浦々訪ねて行ったんですよ。必ず全ての方にサインをするんですけれど、グッズだけっていうわけにも行かず、皆さん色紙を持って来るから、そこにカラーのキャラクターを描くようになったんです。それで何色かセットのマーカーなどの画材もその時に持ち歩いていたんですよね。その時の描いた感じがこの壁の絵というわけです」
伊藤ーーー「それは大変に貴重ですね、全国を回られてその場でその場で…」
原田ーーー「ファンの方の注文通りに描いたりしてね…北海道から九州まで行きましたね…」
伊藤ーーー「小さな店まで行かれましたか?」
原田ーーー「小さな店までは余り回ることが出来ないから、大きな店に集まって貰ったり」
伊藤ーーー「それはやはり大都市の…」
原田ーーー「そうですね、街のね。売ってくださる店と買ってくださるお客さんと触れ合うと、こちらの思惑とは違う売れ筋があったり、それぞれの思いを確認出来たりしましたね、1人1人の顔が見えるから、目標になるというか…元々ぼくはイラストレーターだから、(ぼくの描いた絵を)見た人が喜ぶような絵を目指しますね。自己満足じゃなくて、受け止めて貰えるような絵。他人の好みに合わせるような…」
伊藤ーーー「ふむふむ、そうですよね」
原田ーーー「イラストレーターに成り立ての頃は、仕事に合わせて絵を変えていました。スタイルも10種類くらい。ミステリー本の依頼ならそれ風に、といった感じで内容に合わせて。それはananというところで最初にイラストレーションを描き出して、そこはアートディレクターが堀内誠一さんで、代表的な雑誌を創刊させた人です。anan、オリーブ、そしてポパイ、ブルータス、全部創刊号の基盤を考えた人です。グラフィックデザインも絵本もやってしまうような人でした。その堀内さんに気に入られて描いている間に、(雑誌の)同じ号で例えばパリの地図のイラストレーションの依頼があって、堀内さんがこんな風に描いてねってラフスケッチで指示をくれるんですが、それが物凄く上手いんですよ」
伊藤ーーー「はい、想像出来ます」
原田ーーー「全部自分でやれば良いのに、と思うくらい。で、こういうのは原田くんにやって貰おうかなって感じで、何にも注文を付けないで自由に描かせてくれました。それは内容に合わせて描かなきゃってぼくはいつも考えていたから、それを堀内さんも見てる内に解ってくれていたようで。見てくれる人(読者)に合わせて描くという意識がいつもあり、あんまり個性的なイラストレーションには最初から興味がありませんでした。石井さんのおかげでオサムグッズがスタートしたんですが、当時可愛い女の子向けの雑誌にmcシスターとか服装って若い女性向けの雑誌があって、そういうところに描いたイラストレーションを商品化して、女の子たちに買って貰おうってことになったんですね、特化したんです」
伊藤ーーー「スタイルの内の1つだったわけですね」
原田ーーー「はい、その1つでした。ジャンルごとに自分自身がカメレオンのように変わっていくイラストレーターを目指していたんです。堀内さんに憧れていましたからね」
伊藤ーーー「やはり原田さんはデザイナー志向が強かったのですね、スタイルの使い分けは仕事としては普通のことですもんね。オサムグッズがなければ原田さんの作風は今ある形で認識されていなかったかもしれませんね」
原田ーーー「そうですね、イラストレーターっていろいろ作風を描き分けるものだって思ってましたからね。商標権をとったことで意識が変わりました。ずっと使わなくちゃいけないですからね」
石井ーーー「成る程。あ、会場の皆さん、他に何かどうしても言いたいこと(笑 があればどんどん質問しちゃってくださいね(笑」
原田・伊藤・会場ーーー「どうしても言いたいことって!!(爆笑」
若い男性客ーーー「あ、質問があります。良いでしょうか?」
石井ーーー「どうぞどうぞ」
若い男性客ーーー「ミスタードーナツの景品(原田治氏がイラストレーションを担当した販促物)とオサムグッズでは、随分雰囲気やデザインが違うと思いました。」
原田ーーー「あれはね、絵だけ渡すんです。えーと、ミスタードーナツの場合はね、電通さんの扱いなので、線だけのいろが付いてない原画を電通に渡しちゃうんです。デザインもカラーリングも全て電通の下請けのデザイン会社みたいなところが、全部行い、ミスタードーナツさんや電通さんの社内プレゼンテーションをやって、社内の人がこれが良いとかあれが良いとかで決めてたようです。出来上がって初めてこんなのになったのか、ってね(笑」
若い男性客・会場ーーー「大笑」
原田ーーー「最初に指示のスケッチも何もないんですよ。お皿にこういうのを描いてくれとか、女の子の絵を描いてくれとか、それだけの指示しかないんです」
若い男性客ーーー「それはオサムグッズとはバッティングしないのでしょうか?」
原田ーーー「それはね、イラストレーターとして受けた仕事なので、キャラクターじゃないんですよ。それは商標どうこうは関係なくって、使い切り。広告の仕事の一環としてイラストレーターとしてやる。ただ、物を作るんで、やっぱり、普通のイラストレーションは買取りだけれど、物を作る場合はロイヤリティが発生します。だからキャラクターデザインとイラストレーションの中間くらいの仕事ですね。」
若い男性客ーーー「オサムグッズで使ったキャラクターを他のブランドや仕事で使うってことはあるんですか?」
原田ーーー「それはオサムグッズの商標を使うかどうかって問題かな」
若い男性客ーーー「キャラクターとしては似ていても構わないというか…」
原田ーーー「まぁちょっとは変えますけどね(笑 変えてるんですよ!(笑」
若い男性客・会場ーーー「大笑」
原田ーーー「同じものはないと思いますよ、ミスタードーナツでも(笑 …オサムグッズはだいたい80年代で、90年代にバルル経済が崩壊して、ミスタードーナツの方はその後から始まったんですよ。凄い需要が増えて来ました。景気がどん底になるとモノが売れなくなって来て、そういうときに景品としてね。ドーナツを買うとおまけに(原田治氏のイラストレーションがレイアウトされた)お皿が付いて来る、というようなスタイルが流行ったんでしょうね。ですからオサムグッズのデザインを止めちゃったのは90年代ですけれども、それから、もうミスタードーナツの方にね。ロットが全く違うんですよね。そもそもオサムグッズはファンシーグッズ屋さん200~300店舗くらいですから、売れたなぁって営業所の皆で喜んでも1万個2万個くらいで、単価も高くなっちゃった。それで、ミスタードーナツの景品をやり出してからは、どんどんどんどん個数が増えてって、90年代半ばくらいからは400万個くらいになってね。殆ど日本で作ることが出来ないから、中国なんですけど…」
若い男性客・会場ーーー「ほぉ~~~」
原田ーーー「もう、桁が違い過ぎちゃって…途方に暮れましたけど(笑」
石井ーーー「400万個ですか…。ぼくが記憶してるので、あのミスタードーナツの景品セットでいろいろ入ったランチボックスで、明石家さんまさんを使ったコマーシャルで宣伝していたなぁって覚えてますね」
原田ーーー「それは最初に仕事を受けた頃だから、ぼくはまだそれ程活躍したような気はしないんだけど…」
石井ーーー「いやぁ、それがそのセットは数十万用意されていたのに全部なくなってしまい、コマーシャルもストップしなきゃいけない事態になったらしいですよ」
原田ーーー「それは80年代最後くらいかなぁ。90年代になったら、もうそれ以上の個数で100万個単位でしたからね。年に4回くらいの販促期間の仕事で、2週間くらいで仕上げなくちゃならなかった。もう、時代の変化で変わっちゃうんですよね。今は規制が働いて出来ないんじゃないかな。雑誌だってこの前までおまけ付けたりしてましたからね。景気の変動で人の消費行動も変わって行くんですよね」
石井さんーーー「じわじわって来る時代でもなく…」
原田ーーー「90年代って本当、凄かったですよねぇ…」