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PALETTECLUB特別企画 原田治のイラストレーション展

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飯田_…そんで、えーと、じゃあね…またあるんですけどもね。そういう話なんですけど…まだ時間、あるんだよね。じゃあ何でね、それぞれの方達、皆さん。

上田_はい。
飯田_個性って話で言ってたかもしれないけど、イラストレーターになったきっかけ。
上田_きっかけ?
飯田_原田さんは先生に「画家で食えなくていいかってお父さんに相談しろ」って言われてイラストレーターになったみたいなさ。

上田_私は、子どもの頃から絵を描くこともすごく好きだったんですけど…雑誌とか本がすごく好きで。編集…編集者、本を作る編集の仕事をしたいってずっと思ってたの。で、まぁ高校に入ったんですけど。進学校の女子校に入ったのに、結局だめで、もう底辺を彷徨う…で、先生に「大学へは行けない」とか言われちゃって。「え!」みたいな(笑)

飯田_落ちこぼれてた?(笑)

上田_落ちこぼれです(笑)600人くらいいたんですよ、私の時ね。女子ばっかり。それの500何番って(笑)
飯田・赤・ヒロ_(笑)
会場_(笑)

上田_ヒドい生徒だったんですけど(笑)で、そのままOLとかたぶん向いてないだろうなとか思って。じゃぁ、本の次に好きなのは何かなっていうと絵を描くことがすごく好きで。ちょうどその頃に、大橋歩さんが『平凡パンチ』で表紙絵を描いて。

飯田_あぁ、衝撃的だった。

上田_え?こういうのカッコいい!っていう…洋服とかも好きだったから、何か、真似して描いたりとかしちゃって。で、イラストレーションっていう言葉もその頃に初めて知ったくらいで。で、いろいろ探したら『セツモードセミナー』があって。試験もない(笑)うふふ(笑)「ここしかないじゃん?」っとかって思って(笑)親に何も相談せずに自分で申し込みに行っちゃって。事後承諾で『セツモードセミナー』へ行ったんですね。
その頃の『セツ』はイラストレーターになりたい人がすごくいっぱいいて。"新宿で石を投げたらイラストレーター志望の人に当たる"くらいの感じの時だったんで。「上田さんもイラストレーターになりたいんでしょ?」って友達とかにも言われて。なんだか、よく分かんなかったんですよ。学校へ行って絵を描くと、絵を褒められるわけ、先生にね。でもどこがいいのかも分からない。「でも、良いって言ってくれるんだ?上手いのかな?」とかって思ってるうちに先生に紹介されて、初めての仕事をして。そしたら、ギャラがすごく良かったんで…そのまま…(笑) 

上田_だって、モノクロのこれくらいの絵ですよ(と、手で長方形を作るしぐさをする)、5点描いて1万5千円もらったんですよ。その頃の短大卒業して…お給料、初任給って2万円くらいの時よ?

ヒロ_え~!
上田_たった5カットで1万5千円ですよ。
ヒロ_すごい!

飯田_夢みたいね、今のギャラで考えたらね。そうでしょう?イラストレーターの方ね、安いでしょ?一生懸命描かせたってね、最低賃金以下っていうか、未だにワンカット5千円。ふざけるんじゃないよね!

赤_あははは(笑)
上田_だってそれ…1969年くらいですもん、その頃の話ね。
ヒロ_その頃から変わってないんですね(笑)
飯田_変わってないよね(笑)レコードと一緒ですね(笑)
上田_で、まぁ…じゃあ、やりましょ。と思ってそのまま…ずっと就職もしないで、この世界です。
飯田_(ヒロさんを指して)

ヒロ_僕ですか?
飯田_ヒロさん。

ヒロ_僕は元々…いろんな雑誌でも書いてるんですけど、父親が歯医者なんで。でも歯科医の後を継ぐっていう人生だっだはずなんですけども。高校に行って、僕は日大の歯学部にいくつもりだったんで、日大三高校っていうところなんですけども。そこに日芸に行きたいってヤツも来てるんですよ。その子達と仲良くなって。で、僕は高校を卒業して浪人するんですけれども、彼らは日芸に入って。その子たちと浪人中つるんで遊んでると、何か面白いことやってるんですよね。絵を描いたりデザインっぽいことしたりとか。それで初めてそういう世界があるんだなって知って、それでだんだん歯医者になるのが嫌になって。自分もそっちの方に行きたいなって思ってるんですけども、その時点で二浪してるんで(笑)親に言えないし(笑)

会場_(笑)

ヒロ_悶々としながら代々木のぜミ、当時通ってたんですよ、そこに行かなくなっちゃって。自由が丘を一人ぶらぶら歩いていたらば、目の前から親戚のお姉さんが歩いてきて(笑)

飯田・上田_(笑)

ヒロ_「あなた何してるの?」と(笑)で、「ちょっとお茶でもしましょう」ということになって、喫茶店に誘われて。その時の気持ちを全部そのお姉さんに話したんですよ。でまぁ「歯医者になろうと思ってたけど、今は自分ではそういう気持ちはなくて、実は芸術方面に行きたいんだ」って。そしたらそのことを、お姉さんが全部その日の内にうちの親に電話で話してくれて。で、母親から父親に渡って、父親がその日の夜に「好きなことやればいいじゃん」って(笑)

飯田・上田・赤_(笑)
会場_(笑)
飯田_親不孝息子だねー(笑)本当にもう(笑)

ヒロ_(笑)そっからですね。美術系の専門学校へ行って。で、一番転機になるのはその…2年生の時に、僕の友達が湯村さん(イラストレーターの湯村輝彦氏)のところでアルバイトしていて。

飯田_フラミンゴスタジオで?

ヒロ_フラミンゴスタジオで。フラミンゴスタジオが丁度引っ越す時に「引っ越しを手伝ってくれないか?」って言われて、1週間くらいの気持ちでアルバイトに行くんですよ。で、結果…7年いた(笑)

飯田・上田・赤_(笑)

ヒロ_で、湯村さんところに行って「杉山、絵描いてるのか?」って言われて「描いてますけど」って言っても見せられないんですよ、怖くって。当時湯村さんって発掘王って言われてて、湯村さんが認めた人はみんな(世に)出て行って勢いがある、みたいな…だったし、ここで湯村さんにダメだって言われたら「終わるなー」と思って。3年間ぐらいは、絵を一回も見せなかったですよ。

飯田_怖いよねー。

ヒロ_そうです、怖かったです。でもある時、どうしようもなく見せなきゃいけない状況になってきて。その日絵をこう…描き溜めたのを30枚くらい持って、会社に出勤するんですけど。ずーっとこう…見せなきゃいけないんだけど、朝からずーっと見せられなくて。で、ご飯も終わって、帰りがけに「もうこのまま帰っちゃおう」と思うんですけど、湯村さんが「持ってきたか?」って言って(笑)

飯田_いい人だねー。で?
上田・赤_(笑)

ヒロ_その時初めて見せるのでドキドキなんですよ(笑)で、事務所のドアをノックして「杉山ですけど絵を持ってきたので…」「絵を見るよ」って言って、ばーっと見て「おぅ、杉山。イラストレーターになれるよ」って一言返ってきて(笑)

飯田_いひひ(笑)
上田_一言なのね?(笑)
赤_(笑)
ヒロ_事務所のドアを閉めたとたんにもう、ワーッと泣き出しちゃって(笑)
飯田・上田・赤_ははは(笑)
会場_(笑)

ヒロ_それだけ嬉しかったのと、緊張してたのとで。そっからは、もう、必死に絵を描いて。イラストレーターになろうと思ってやってましたけどね(笑)

飯田_初めて聞いたよ(笑)………次は赤さん。

赤_自分はあんまりその…何て言うんだろう?…絵で飯が食えるとは思ってなかったから「イラストだったら食えるんじゃない?」って話になって、急にそっちの方へ行っちゃったみたいな。それで大学4年ぐらいの時に日宣美(※2)があって入選できたし…デザインセンター(※3)に入って、毎日広告デザイン賞もとれたし…出すとだいたいとれちゃう…(笑)

ヒロ_だいたいとれちゃう(笑)すごい(笑)

赤_賞金稼ぎみたいになっちゃって(笑)自分でADやりながらデザインするみたいな、そういう感じの仕事をずっとやってたんで…3年、4年ぐらいでフリーになっちゃったからね。だからもう、好きなことやって飯が食えるってこれに越したことはないって(笑)

ヒロ_幸せですね(笑)
上田_(笑)
飯田_日宣美展って、皆さん知らないと思いますけどねー。それとったらプロって言う世界でね。
赤_そう、あの頃の先生達と同じレベルになってるからね。

飯田_そうそう。それを学生時代にとっちゃったって、今だったら中学生で賞金とりになったようなものでしょ?はっきり言って。学生レベルで日宣美とったらもう、将来を約束されたようなもんだからね。それはすごいと思いますよ。さらっと言ってますけどね。

赤_そう。デザインセンターに入るのは…今はもうちょっと問題になってるけど、永井さん(永井一正氏)が引っ張って。テストも受けないで入っちゃった。

飯田_センター、未だにすごいですね。デザインセンター、良い会社ですよ。非常に良い。デザインセンター知ってる人いますか?(と会場に聞く)いない?

赤_あの頃は、ライトパブリシティとセンターのふたつがすごかった。
飯田_そうですね。
赤_どっちに行く?って。

飯田_それだけ、すごい認められてたんだと思いますよ。でも、美大に行こうと思った時はだって…デザイン科を選んだ?原田さんは先生に言われて…

(※2)日宣美…日本宣伝美術会の公募展
(※3)デザインセンター…日本デザインセンター 日本の広告制作プロダクション

赤_俺はもうね、飯が絶対食えないと思ったわけ。絵だけでは。俺は絵が好きだから、でも絵描きで飯なんて絶対食えないから…(デザイン科には)商業デザインって書いてあるじゃないですか?コレ、行ける!と(笑)

飯田・上田_(笑)
赤_コレだったら、もしかして行けるんじゃないかな?って思って(笑)
飯田_(会場に向かって)比較的、軽いでしょ?(笑)
会場_(笑)
上田・ヒロ_(笑)
飯田_ねぇ。大先生なんですけどねー(笑)
赤_好きなことやって飯が食えるってこれに越したことはないという(笑)…もう、一番チャラい話だなー(笑)
飯田_(会場に向かって)面白いでしょ?大丈夫?大丈夫ですか?
上田_あははは(笑)
ヒロ_(笑)

飯田_そうですね、僕はあれですね。子どもの頃からやりたかった、イラストレーターになりたかったのもあるし、そういった専門の高校にも行ったりとかしてたんで。ちょうどね、あの頃っていうのは、デザインの世界と版画の世界が仲良しになって、永井一正さんとかね。版画をみんなに広めたりなんかしてて。デザイナーっていうのが…デザイナーがファインに近い、版画をやっていいのか!っていう時代だったんですね。横尾忠則さんとか版画的なポスターを作ったりして。まさにその、70年代がね一番こう…活気のある時期が、僕が高校を卒業したくらい。で、「絶対この道だ」と思って目指してたんで。
ちょうど原田さん世代が道を開いてくれてた後だったんで、もうこの道を行けば赤さんじゃないけど「食えるな」と。元々そういった志向で。仕事が成立するんだって、考えましたけどね。
まぁ、そんなことで。その後はね、世の中、ファッションでね。DCブランドがもう…全盛の時だったんで。原宿で会社やってて、便利屋みたいなことやってて。で、Tシャツとか、袋、名刺みたいなものを請けてて。1個版下作る時、5千円くらいくれたんですよ。それをまぁ、10点から数点あれば、そこそこ生活できたんでね。そういったことやって、ファッションの中に入っちゃったら、ファッションメーカーが最初は…マンションメーカーって言われて3人くらいでやってた会社が、いきなり1年後にドーンって30人くらいになっちゃった。当時はユニクロないからね(笑)

会場_(笑)
上田・ヒロ・赤_(笑)

飯田_高いの。ブルゾン3万8千円から、とかね。それが当たって、どんどん列が出来る。それと同時に、広告も出稿するようになるし、イラスト発注も来るし。で、この世界に入っていったって感じですね。ちょうどそういった、良い時代の波に乗ったなっていうのがあります。
一応そんなとこで、それぞれ違った形でね、イラストレーターになったきっかけを話しました。

 

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