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OSAMUGOODS NEWS

8月25日に『原田治展』で開催されたトークイベントをレポートします。治さんが先輩と呼び慕った盟友、アートディレクターの新谷雅弘さんを招いてお話をうかがいます。聞き手は、治さんや新谷さんとも交流が深いイラストレーターの信濃八太郎さん。
Vol.1の今回は、新谷さんと治さんとの出会いや「パレットくらぶ」結成にまつわるお話など。

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トークショー出演者プロフィール紹介。画像左より

新谷雅弘さん
1943年生まれ。大阪市立工芸高校図案科、多摩美術大学を経て、堀内誠一氏の助手となる。1970年、『an・an』創刊に参加。170号まで携わり、その後『POPEYE』を1976年の創刊から80号まで手掛ける。『BRUTUS』(1980年~)、『Olive』(1982年~)でもそれぞれ創刊からアートディレクターを務めた。他にデザインを手掛けた雑誌に『鳩よ!』『Hanako』『GINZA』『MUTTS』(以上マガジンハウス)『たくさんのふしぎ』(福音館書店)『マミイ』(小学館)など。

信濃八太郎さん
日本大学芸術学部演劇学科舞台装置コース卒業。重要文化財自由学園明日館勤務、ペーターズショップ&ギャラリー勤務。パレットクラブスクール、コム・イラストレーターズ・スタジオ受講。 雑誌、書籍、広告などのほか、舞台美術やアニメーション作品の制作も行う。現在、WOWOWで放送されている『W座からの招待状』にご出演中。12月27日からは『W座を訪ねて~信濃八太郎が行く~』がスタートします。

 

スタッフ_そろそろお時間になりますので始めさせていただきたいと思います。本日はお集まりいただき、ありがとうございます。私は今回展覧会を担当した、世田谷文学館の大竹と申します。

今回の展覧会は、原田さんが様々な媒体で残された言葉を頼りに、内容を組立てさせていただきました。ただ、ご本人が語った言葉だけではなく、近くにいた第三者がそこに加わることによって、原田さんの人物像であるとか、原田さんのつくったもの、そういったものが立体的に陰影を持って見えてくるのではないかと思い、今回のイベントを企画いたしました。

お話いただくのは、原田さんが「先輩」と呼び、慕った新谷雅弘さんです。新谷さんは文字通り、原田さんの多摩美の先輩で『POPEYE』や『BRUTUS』や『Olive』といった、マガジンハウスの雑誌の黄金時代のアートディレクションを数多く手がけておられます。
そして原田さんとペーター佐藤さんと安西水丸さんとで集ったパレットクラブでは、世話役として参加されました。また原田さんとの共著もありまして、今日はイベントの為に、会場の壁面に展示をさせていただきました『OSAMUGOODS GO TO HAWAI』という写真集【1】…あるいは抽象画家 川端実氏の作品集『KAWABATA IN NEW YORK―ニューヨークの川端実』【2】なども共に制作されています。

そして、本日聞き手になっていただくのは、信濃八太郎さんです。信濃さんは安西水丸さんに師事されたイラストレーターで、現在WOWOWで放送されている『W座からの招待状』という番組で、安西さん・長友啓典さんに続いて三代目のイラストレーターとして、イラストレーションの提供とホストを務めていらっしゃいます。
長らくお待たせいたしました。お二人にご登壇いただきたいと思いますのでどうぞ、拍手でお迎えください。

会場_拍手

信濃_沢山お集まりいただきまして、ありがとうございます。私、イラストレーターの信濃八太郎と申します。新谷先生のことは皆さんご存知だと思うので、何でこんなところに私がいるのかということをちょっとだけお話させていただきます。
安西(水丸)先生に日大の芸術学部時代に拾っていただいて…というか、その学部ではなく、私はモグリだったんですけど…「君、毎週来なよ」と言ってくださったのがきっかけで、イラストレーターを目指しはじめました。
卒業してから新谷先生たちが中心につくられた築地のパレットクラブという、イラストレーターを育てるスクールに通いまして、そこで新谷先生、原田先生とも関係をいただくようになりました。
パレットクラブは1年で学習行程が終わる学校なんですけど私は2年通って、それから月から金まではペーター佐藤さんのペーターズギャラリーのスタッフをやらせていただき、土日にはパレットクラブのスタッフをやらせていただいくという…(笑)1週間どっぷり、イラストレーション漬けの生活を15~6年続けて、今に至るという感じです。
今日はそういうことで、皆さんとの関係がある立場ということで…ぼくが聞き手のご指名をいただきました。ですが『ビックリハウス』などは、その頃まだ小学生だったので、ここにいらっしゃる皆さまのほうが詳しいかと。その頃は『コロコロコミック』とか『少年ジャンプ』ばっかり読んでいたんで(笑)。

会場_(笑)

信濃_後追いで…『ビックリハウス【3】』などは古本とか買ったりはしていましたけど。ですので、ちょっと素っ頓狂なことを言い出したりするかも知れませんので(笑)ご容赦いただければと思います。
今回の展示を見て思ったんですけど…新谷先生は本当に義眼でらっしゃるんですか?

新谷_いや、違います。あんまり良くはないんだけどね(笑)あの…原田君がそう描いていた【4】でしょ?
会場_(笑)
信濃_義眼、義眼って沢山出てきて、どこまで本気なんだろうと…
新谷_あそこに展示してある文章【4】にも書いてあるんですよ。
信濃_(笑)
新谷_ご存知のとおり、ってなっちゃっていますけどね(笑)
信濃_“ご存知のとおり、義眼の新谷先生”(笑)
新谷_パーティでさぁ、女の人が僕の顔見てて…なんか一生懸命見てくるんだよ。あんまり、会ったことない人なんだけどね。
信濃_(笑)
新谷_「え?何ですか?」って言ったら、「義眼なのによく動きますね?」って言われて。
信濃_え!(笑)
会場_(笑)
新谷_そりゃ動くよ!義眼じゃないんだもん(笑)なんであいつに義眼って言われなきゃいけないのか…(笑)
会場_ははは(笑)

【3】『ビックリハウス』は1975年に創刊された、サブカルチャー誌。読者参加型の紙面作りが話題を呼び、人気を博した。治さんはペーター佐藤さんと共に創刊準備の段階からイラストなどのビジュアル面で協力していた。 “明石町先生”のペンネームで、編集者や関係者の似顔絵マンガも連載。この『ビックリハウス』をきっかけに知り合った仲間とのつながりが「パレットくらぶ」の活動へと発展していった。

【4】『パレットくらぶと私』より。治さんの文章の中に、「まったく新谷雅弘翁の努力によるものである。翁は為に片方の眼の視力を失い、手さぐりで絵を描き、点字で図案をするまでになったが(云うまでもなくもう片方は義眼である)今なお衰えぬくらぶへの偏愛ぶりと率先力は、時として我々を辟易とさせるのである。(一部抜粋)」とある。

信濃_筆談をされているパレットクラブの皆さんの(『ビックリハウス』の漫画)…あるじゃないですか。今日いろいろ刷り出して持ってきたんですけど(と言って、『ビックリハウス』で原田さんが描いていた漫画を会場に見せる)。皆さん、夜な夜なお酒を飲みながら筆談されていたんですか?これは?

新谷_酒なんか飲んでないよ。
信濃_お酒は飲んでないんですか(笑)
会場_(笑)

新谷_酒なんか飲んだら書けませんからね。…筆談っていうのは僕が言い出したことで。僕がレイアウトをして現場で…筆談をやってる時にね。で、終わったとこから皆んなにどんどん書かせるという。

信濃_どういうことなんですか?これは新谷先生が最初に書き始めて、普通に会話文で書いてあるんですけれど…

新谷_だから、回すんです。原稿用紙を作るでしょ?
信濃_はい。

新谷_原稿用紙を作って…まず、僕が書いて。今日は水丸にするか!って「ちょっと水丸、書いてよ」って言って。それで、まずテーマを言って、何々だよねって言って、一行一行書く訳だよ。

信濃_あ、そうなんですね?!喋ってる風に…
新谷_「はい、次!」って言って回す訳よ。
信濃_回すのは…誰とか決まってなくて?
新谷_いやいや、テキトーに。
信濃_会話してるのと同じように…
新谷_「俺、さっきそれ書いたからいいよ」って言われて(笑)
信濃_ふふふふ(笑)
新谷_「違うヤツ書いてよ、違うヤツ」って(笑)で、僕のところにたま~に回ってくるじゃない?
信濃_はい。
新谷_そしたら、僕は編集者みたいなことだから、赤入れて、誤字直して。
信濃_そんなところまで当日されていたんですか?

新谷_うんうん。「水丸、ちょっと、この文章おかしいぞ。何言っているかわかんねぇよ」って言って「書き直してよ」って、書き直させたりね(笑)そういう、編集者みたいなことやってて。ついでに僕もちょっと足してね。それで、はいまた次回す、みたいな。
「ちょっと水丸が続いてるぞ!」って言って、それで「そろそろ原田君、書いてください」って言ってね。それでぐるぐる回してたんだね。

会場_(笑)
信濃_これを読むと原田先生が一番…毒が強いというか。
新谷_かもしれないね。
信濃_キャラクターからは想像できないというか。“義眼の新谷先生”とか…(笑)
新谷_怖いもん、知らずだからね。
信濃_“歩く性犯罪者の安西水丸”とか…(笑)
会場_(笑)
新谷_いや…もう。
信濃_書いていいのかな、っていう(笑)
新谷_自分だけが、ボンボンのお坊っちゃんだからね(笑)
信濃_あははは(笑)
新谷_調子いい話だよ!もう(笑)
信濃_あははは(笑)
新谷_『ビックリハウス』でも、長屋の若旦那の格好【3】してるでしょ。
信濃_あ、はい。ご自身はすっごく鯔背な感じで描かれてましたね。
新谷_あの、「酢豆腐」って落語知ってますか?文楽(8代目 桂文楽)でもいいんだけどね「酢豆腐」。腐ったお豆腐の「酢豆腐」って言うのね。
信濃_はい。
新谷_それに長屋の若旦那が出てくるのね。あれが、好きなのよ。
信濃_原田先生が…

新谷_うん。暇な職人がさ、仕事しないでさ。昼間っからだらだら集まってね、酒でも飲もうかって話をしてるでしょ?「ちょっとつまみが欲しいね」って言って。そんなこと言ってる内に、若旦那が通ってさ、「あんた、酢豆腐って知ってるかい?」とかなんとか言うんだよ。それをあいつに食わしてしまえってんで、腐った豆腐を食わすって話なんだけど。それを彼が凄く好きで。

信濃_へえ…なるほど。
新谷_そこからきてるんだと思うよ。
信濃_そのノリが。
新谷_長屋遊びで集まってるのが、僕ら。
信濃_ははは(笑)
新谷_モテモテの畳屋の半ちゃんは水丸さん。
信濃_そうですね(笑)
新谷_モテモテなのよ、いっつも。
信濃_こう言うことが…驚きなのが…皆さんまだ、30代前半なんですよね。
新谷_そうですね。

信濃_僕、今44歳なんですけど…イラストレーターで(パレットクラブの皆さんと)同じ職業ですけど、全く違う職業の人たちの…輝きと言うか…イラストレーターがこんなにふざけていい時代があったんだと(笑)

会場_ふふふ(笑)
新谷_(笑)。あったんだね、結果的にそうなんだよ(笑)
信濃_悪いことばっかり言ってるなぁと思って、読み進んでいくとピンと来た言葉が入ったり。

新谷_割合とね…大人の人と付き合っていた時代なんだよな。僕も堀内誠一さんと言う人の助手を21年間もやった訳だから。堀内さんも凄い大人だったんだよね。その大人の堀内さんと毎晩飲みに行ってて…あなたは水丸さんと飲みに行ったでしょ?

信濃_はい(笑)毎晩とはいきませんでしたが(笑)

新谷_僕は、毎晩だったんです(笑)毎晩飲んでて…そのことによって堀内さんの関係の先生方とも繋がって。綺羅星のごとく凄い先生方でしたけれど…そういう方と一緒になったりとかってあったんだよ。大人の世界を見ていると言うことだね。

信濃_それは、新谷先生がお若い頃の?
新谷_うん、若い頃の。石川淳って知ってますかね?作家の。
信濃_はい。
新谷_バーで飲んでると、あの人が僕の背中の後ろにきて「君ね。若いうちは飲んどけよ。70すぎたら飲めねぇぞ。」なーんて言って。
信濃_ははは(笑)
新谷_「えぇー!石川淳だ!」って言ってね。そういう付き合いがいっぱいあったんですよ。
信濃_やっぱりそういう意味では歳は近くても、少し大人の世界を知っている新谷先生がみんなを引っ張っていらっしゃったんですか?
新谷_いや、そんなことないですよ。僕ら世代がそういう世代だったと思う。今の子は孤絶してるんじゃない?
信濃_そうですね、僕らがまだギリギリ繋がりを持っていただいている感じがします。
新谷_あなたは今何歳?
信濃_44歳ですね。
新谷_44歳。10歳くらい上の人って…割合と、大人のデザイナーとか、そういう人としょっちゅう飲んでることが、あるかってことだよね。

信濃_全くないですね。イラストレーターの先生たちとは、お付き合いをさせていただいてきましたけど、あまりそういう影響者とかデザイナーとか、一緒にお酒を飲むっていうのはない…ですね。

新谷_いわゆる偉い人と飲んだりしないでしょ?
信濃_そうですね、ないですね。
新谷_もちろん(いわゆる偉い人と)話したりはしませんよ。黙って見てる、それだけなんだけども(笑)
信濃_その場にいるってことが…
新谷_その場にいるってことですよね。それがあったんです。もしその、ちょっと大人臭い感じがするということでしたら、そういうことです。
信濃_いや、ちょっとどころか…30代でこの遊び方というか。もう、余裕を感じるんですよね…
新谷_それは「時代」でしょうね。
信濃_そうなんですかね?
新谷_やっぱりこうね、この何十年で(世の中が)ひどい状態になっちゃったから。
信濃_それも今日伺いたかったんですけど…例えばイラストレーターが集まるって、自分たちのグループに名前をつけるという発想がまず、僕らの世代にない。
新谷_あぁ、そうなんだね。

信濃_はい。当時は「100パーセント・スタジオ」って言うと、湯村(輝彦)さん、河村(要助)さん、矢吹さん(申彦)とか…例えば宇野(亜喜良)さんはちょっと上の世代になりますけど…「※スタジオ・イルフィル」とか。「※K2」はちょっとデザイン事務所ですから、変わりますけど。そういう、集まって “皆んなで何かを作ろう”という中で、パレットクラブの人たちの特徴って言うか…結果的に皆さんが何をはじめたのかは別として、空気感みたいなものがあるような気がするんですよね。

※スタジオ・イルフィル…宇野亜喜良、原田維夫、横尾忠則の三人が結成したデザイン事務所。活動は1964年から1965年と短かった。
※K2…長友啓典と黒田征太郎が1969年に立ち上げたデザイン事務所

新谷_僕は(パレットクラブ加入は)途中からですからね。
信濃_あ、そうなんですか?

新谷_一番最初は1979年に作ったらしいんですけど。秋山育さんという方がいましてね、その方が会員というかグループだったので。パレットクラブ【5】っていう名前は慶応かどこかにもあるんでしょ?どこでもあるよね(笑)。

信濃_ははは(笑)
会場_(笑)
新谷_ペーターが言い出したとか言っていたけど。
信濃_あ、読みました、ペーターさんが…
新谷_「パレットクラブでいいんじゃない?」「それでいいよ!」みたいな感じよね。別に深く考えていないのよ。

【5】「ペーター&オサムスタジオの名義で、『an・an』の頃からともに仕事をしていたペーター佐藤、その『an・an』創刊に参加していた新谷雅弘、『ビックリハウス』を通じて知り合った安西水丸、秋山育。気の置けない仲間たち5人が1979年に作品展を開くことになり、グループに名前をつけようと、ペーター佐藤が命名したのが「パレットくらぶ」でした。(のちに秋山育は脱退)。83年からは京都でイラスト教室を始め、メンバーが毎週交代で講師を務めました。その後97年には築地の生家を建て直し、パレットクラブ・スクールを開講。今日に至るまで多くの才能を輩出しています。」ー世田谷文学館展示案内よりー

信濃_それはもともと…何かこう…
新谷_国立研究と称している訳よ。
信濃_あはは(笑)そうなんですか?!
新谷_そうだよ(笑)いやいや、嘘にきまってるんだけどね(笑)
信濃_ははは(笑)

新谷_国立研究とかって言ってさ。「そうか、分かった!それなら、みんなで京都、行こう!」って、そういう短絡的な…で、別に国立美術館には観に行かないっていう(笑)

信濃_ただお酒飲んでいるだけですか?
新谷_ただお酒飲んでるだけ(笑)。でも、かといって、何か美味いもん食いに行きたいね、というのとも違うんだよね。食道楽というのともちょっと違う。
信濃_でもこれだけ著書があるくらい…古い時代の美術に精通していたり。その辺は皆さん…原田先生だけではなくて…
新谷_ねぇ。水丸さんもすごい勉強家だったもんね。
信濃_その辺りでみんな話が合うというか?
新谷_あまりそういう話は出さないようにしてたみたいよ(笑)そんな感じはなくはないね(笑)

信濃_新谷先生のお話も私がパレットクラブでスタッフやっていた時に、授業を後ろで聞いていたんですけど。
絵本を作りたいという人たちに、まず絵巻物の話から始められるじゃないですか。こういうことは、ほかの先生はやってらっしゃる方が一人もいなくて。技術的な話はされるんですけど、もっと根っこみたいなものを…根幹を、ちゃんと教えようとしてくださっていたのが、スタッフとしては印象的だったんですよね。
そういうことが、描く絵ですとか、世界は違えどペーター先生も安西先生も原田先生も、新谷先生も、みんなそれぞれあったのかなぁと。

新谷_あったんじゃないですか?僕も全部、考えを聞いている訳じゃないから。
僕は京都のパレットクラブ(京都インターナショナルアカデミー)でね、18時半くらいから授業が始まるんですけど…今日は京都時代の生徒がひとり来ていますけど(※現OSAMU GOODSサイトディレクター 笑)嘘つく訳には行かないんだけど(笑)…なんか分からないけど22時半くらいまでやっているんだよ。

信濃_22時半!?
新谷_ひとりで喋っている訳。俺も疲れるけど、聞いている方も疲れるよ(笑)
会場_(笑)
信濃_皆さん、覚悟して(笑)
会場_ははは(笑)

新谷_いやいや、今日はちゃんとやりますからね!
とにかく終わらないのよ。横道いっちゃって。で、イラストレーションって言っても皆さん素人の方が描いているでしょ?50人に一点一点ね、何分もそんなに喋れないですよ。「こことここを直して。以下同!」って感じだから(笑)
だから、喋ることもないから話を膨らましてさ、それで膨らましすぎてさ、何のこと喋っているのか分からなくなる(笑)。

信濃_ははは(笑)
会場_ははは(笑)
新谷_聞いているほうは大変だったろうな~、アレ。

信濃_今日も控え室でお話させていただいていたら「今日こんなこと話すって考えてきた」というメモは、これだけでも資料になるんじゃないかと思う充実ぶりですものねぇ。

新谷_いや、その…今、隠岐島っていうところで毎日農業やっているのでね。で、例えば1日の半分はコンピューターの前に座って何かしてますから。その時に“信濃くんは何を聞いてくるのかな?”とか考えるじゃない。 “あれ聞かれたら困るな、書いておこう”みたいな(笑)

信濃_ははは(笑)
会場_ははは(笑)

新谷_大学でも教えていましたけど、僕、一切そういう準備はしていないんです。すると喋れなくなっちゃうんですよ。これ喋ったかな?喋っていない!…とか。出たとこ勝負で滅茶苦茶言って終わり(笑)
だからほとんど言うこと忘れて「あ~、忘れちゃったな。」とか「あのこと言ってないや。」と、そんなことばかりだったので。今回はそれではまずいので、書いてはきましたけど…たぶんこれもダメだと思います(笑)

信濃_ははは(笑)
会場_ははは(笑)

 

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