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PALETTECLUB特別企画 原田治のイラストレーション展

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トークショー出演者プロフィール紹介。画像右より

服部一成さん
1964年東京生まれ。ライトパブリシテイを経て2001年よりフリー。主な仕事に、「キユーピーハーフ」の広告、雑誌『流行通信』『here and there』『真夜中』、「三菱一号間美術館」のVI、旺文社『プチ・ロワイヤル仏和辞典』など。毎日デザイン賞、ADC賞、東京TDCグランプリ、亀倉雄策賞、原弘賞などを受賞。

菊地敦己さん
1974年東京都生まれ。ミナ ペルホネン、サリー・スコットのアートディレクション、青森県立美術館、大宮前体育館のVIサイン計画、『「旬」がまるごと』『装苑』『日経回廊』など雑誌・書籍のブックデザイン、「亀の子スポンジ」のパッケージデザイン、美術、建築、ファッション、工芸にかかわる仕事が多い。ブックレーベル「BOOK PEAK」を主宰し、アートブックの出版を行う。

服部_(背面の展示を見ながら)いやぁ…上手いもんね。これ、額に入れてたヤツ【1】(展覧会のメインビジュアルになった絵)だね。…だから、こういうとこで描いてたんだね。
菊地_うん。
服部_昔の聖路加病院【2】とかって知らないでしょ?
菊地_知らない。聖路加病院?
服部_昔の聖路加病院ってああいうアールデコの建物だった。僕が大学生くらいの時によく写真撮りに行ってた。

菊地_へぇ。…なんか、ちょっと、大丈夫ですか(笑)こう…バーで先輩と話してるみたいになってますけど(笑)原田治展を見に行った帰りにちょっと一杯やってるみたいな感じになってますけど(笑)

服部_(笑)
会場_(笑)

服部_あの…僕、写真部だったからさ。写真部で、何か撮らなきゃいけないってなって、カメラ持ってとりあえず築地と銀座だとかで撮って写真展に出してて。だから懐かしいんだよね。

菊地_画家のスケッチって感じだよね。

服部_原田さんはその…こういう作品(山際淳司 著『夏の終りにオフサイド』の表紙を指して)、コラージュみたいな。実はもっと作品的なヤツをご自分で制作してたんだ。結構。

菊地_噂には聞いたことがある。

「築地明石町界隈」1980年。『話の特集』に掲載した原画とスケッチ。

こちらの聖路加病院の絵を完成させるまでにスケッチをしたと思われる【下の2点】。

1980年に『話の特集』に掲載された「築地明石町界隈」では絵と文を寄稿している。

服部_これ(『ぼくの美術ノート』)の中にも、晩年の頃の作品が入ってる。晩年の頃…。だから、それは別に急に持ってきたとかではなく…純粋に…美術に対する…仕事で描く絵と、自分の作品は違うっていうかさ…仕事の絵っていうのは仕事の絵なんだ、ってうのが、すごい徹底してる。

菊地_僕さ、お亡くなりになる年に、頼んだらもしかして描いてくれるんじゃないかなって思って…片岡義男のエッセイに原田さんの絵を付けたらいいんじゃないかと思って。で、イラストレーションで1ページ、描いてくれないかっていうのを、ちょっと経由して依頼をしたんですよ。そしたら「その仕事は30年前に廃業しました」って返事が返ってきた(笑)

会場_(笑)
服部_どういうこと?頼まれて絵を描くってこと?
菊地_そう。
服部_イラストレーションは…
菊地_もう…
服部_やらないって?
菊地_30年前に廃業したって。
服部_(笑)
菊地_徹底してんなーと思って(笑)
服部_へー(笑)
菊地_そもそも…俺だったら描いてくれるんじゃないかと思って(笑)
服部_(笑)そうか。依頼を受けては描いてないんだ。
菊地_そうですね、たぶん。
服部_所謂、頼まれて挿絵付けてくれ的なヤツは…やってないのか、もう。ある年以降はね。
菊地_うん。
服部_まぁ自分でテーマ考えて描けるようなものは、自分で受けてやってたかもしれないけど…。
菊地_案外ね、頼まれ仕事はやってないと思うんだよね。
服部_そうかもしれないね。絵本とかはやってたんだろうけど。
菊地_うん。
服部_僕ね『流行通信』って雑誌のディレクションした時に最後「資生堂特集」っていうのをやったんですよ。
菊地_あぁ。

服部_その時に、資生堂にまつわるエッセイを書いてもらうことになって。資生堂のデザインとか広告について書いてもらうことにしてて。資生堂パーラーの飲み物とか食べ物とか…そういうのについて、誰かに頼めないですかねって話になって。原田さん、銀座に詳しいから何か書いてくれないかなぁ~と思って、頼んだら…そしたら断られてしまった(笑)。僕が直接頼んだ訳じゃないんですよ、編集者からね。そしたら、「僕が好きなのは資生堂じゃなくて千疋屋です」って断られてしまったの(笑)

菊地_(笑)
会場_(笑)
菊地_何か分かる気がする(笑)
服部_そう言われて…(笑)まぁ、しょうがないかって(笑)何にも言えなくなった(笑)それでね、安西水丸さんに頼んだら、快く書いてくれた(笑)
会場_(笑)
菊地_(笑)なんかね、山口はるみさんに頼んだら快く描いてくれた(笑)
服部_あ、さっきのソレ(笑)
菊地_うん(笑)
会場_(笑)
菊地_あはははは(笑)
服部_原田さん、手強いね!!(笑)
菊地_手強い!!(笑)
服部_(笑)
菊地_答え方が好き(笑)
服部_あぁ(笑)
菊地_引かない感じが。
服部_ね。すごい笑顔でスパッと答えるよね(笑)
菊地_で、服部さんは仕事は断んないんですか?
服部_え?
会場_(笑)
服部_それはその時による。
菊地_そりゃそうだよ(笑)真面目に答えてる(笑)


服部_どれどれ?この中で特に好きな絵。
菊地_そうですね…(と、辺りを見回した後、立ち上がり『ビックリハウス』の表紙を指す。)これ【3】かな?これカッコいいな。
服部_それ、かっこいいですよね。『ビックリハウス』の表紙絵。
菊地_うん。服部さんは?
服部_僕…今日、新鮮だったっていう意味ではその…本当に初期の挿絵【4】。イラストレーションっていう楽しさがすごくあるよね。
菊地_うん。
服部_これ【5】、結構好きです。
菊地_うん。

服部_これはね、一コマ漫画ね、全部。あの…『話の特集』って書いてあるんですけど。テーマが「ボクサー」とか「天国と地獄」「宇宙」とかあるでしょ。これがあの…和田誠さんが『話の特集』のアートディレクターで、何人かのイラストレーターの人に…当時のね。イラストレーターの人に、同じテーマで描かせて。

菊地_へぇ…。あぁ、なるほど。巻頭にイラストがいっぱい入ってる?
服部_そうそう。で、同じテーマで何人かのイラストが出てるって企画で。2年間くらいですかね、メンバーを変えて。これはね…あの…面白い。ここの(パレットクラブの講師だった)イラストレーターの人もね、安西さんとか原田さんも描いてたし…面白いですよね。

菊地_うん。
服部_やっぱり形が上手いですよね。
菊地_うん。
服部_原田さんの絵は上手いなぁ…なんか"隙がナシ感"があるよね。
菊地_うんうん。
服部_あの…素人として描いてるって言う…なんか、その…。思入れで描いてるってのとはちょっと違う…こう…そういう厳しさね。
菊地_うんうんうん。
服部_"かわいい絵"だけでも、"かわいい絵"だけじゃない、そういう厳しさ。
菊地_うんうん。
服部_いいですよね。
菊地_"絵っていうデザイン"してる感じがするな…

『ビックリハウス』1975年にパルコ出版から創刊されたサブカルチャー誌。治さんは明石町先生というペンネームを使っていた。

菊地さんが選んだ治さんの好きな絵。『ビックリハウス』1979年(53号)の表紙用に描かれた作品。

『anan・ELLEジャポン』1970年に平凡出版(現マガジンハウス)より創刊。創刊前に『平凡パンチ女性版』が2冊出た時のカットが最初の仕事。当時のアートディレクター堀内誠一氏に起用されイラストレーターとしての仕事が始まった。服部さんが選ぶ治さんの好きな絵、其の一。

服部さんが選ぶ治さんの好きな絵、其の二。『話の特集』表紙。テーマは左より順番に「撮影所にて」1977年、「火事」1978年、「名演奏家」1977年、「宇宙」1977年、「天国と地獄」1977年、「ボクサー」1977年。風刺画が好きだった、治さんらしいシニカルなユーモアを感じる作品。

 

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