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原田治 展 「かわいい」の発見 Osamu Harada: Finding “KAWAII”

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トークショー出演者プロフィール紹介。画像左より

新谷雅弘さん
1943年生まれ。大阪市立工芸高校図案科、多摩美術大学を経て、堀内誠一氏の助手となる。1970年、『an・an』創刊に参加。170号まで携わり、その後『POPEYE』を1976年の創刊から80号まで手掛ける。『BRUTUS』(1980年~)、『Olive』(1982年~)でもそれぞれ創刊からアートディレクターを務めた。他にデザインを手掛けた雑誌に『鳩よ!』『Hanako』『GINZA』『MUTTS』(以上マガジンハウス)『たくさんのふしぎ』(福音館書店)『マミイ』(小学館)など。

信濃八太郎さん
日本大学芸術学部演劇学科舞台装置コース卒業。重要文化財自由学園明日館勤務、ペーターズショップ&ギャラリー勤務。パレットクラブスクール、コム・イラストレーターズ・スタジオ受講。 雑誌、書籍、広告などのほか、舞台美術やアニメーション作品の制作も行う。現在、WOWOWで放送されている『W座からの招待状』にご出演中。12月27日からは『W座を訪ねて~信濃八太郎が行く~』がスタートします。

信濃_築地のパレットクラブのバーカウンターで安西先生に絵を見ていただいた時に「やりたいことが散らかっている感じがするから、もうちょっと自分の絵を深めていかなきゃ」って話をしていただいて。その時、横にいらした原田先生がそれを聞き終わった後に「水丸さんはひと握りの天才だからああやって言えちゃうけど、色々あっていいんじゃないかな」というふうにアドバイスしてくれたんです。もしかしたらそういうことだったんですかね。

新谷_そうです、そうです。デザイナーですから、イラストレーターというのは。絵描きではない、と思っているんですよね。デザインなんですよ、つまり、「テキスト」があってやる仕事ですよ。「テキスト」っていうのがテーマですよね。それでやる仕事なんで、夜中むっくりと起き上がってですよ、「芥川賞取るんだ!」ってやるような仕事ではないから。ということは、窓口を広げておかないと…いけないという考え方なんですよね。

信濃_進路や絵柄、個性に困っている人はどんどん出す、みたいな?

新谷_うん。だから今回の原田治の展覧会を観ても分かりますけど、いろんなスタイルの絵があるでしょ?それが全部上手くいっているかは別としてですよ。どれが一番得意かも別として、とりあえずはいろんな絵を描けますよね。描ける人だったし描こうとしていたし、その訓練をしていたっていう。その訓練の姿を見せないのが、東京の格好いい人だから(笑)

信濃_(笑)
会場_(笑)
新谷_全然、そういう鍛錬や修練は見せませんから。
信濃_凄いですねぇ…
新谷_「僕、やってんだよ!」ってとこ、見せませんから(笑)涼しい顔をしていますから。
信濃_あはは(笑)
新谷_でも結構…なかなか「ぎゃぁー、難しい!」って、やっていたんじゃないかと思うんだよね(笑)
会場_ははは(笑)

信濃_印刷物でしか、なかなか拝見できないじゃないですか。それこそ原田先生も、イラストレーターの原画っていうのは、仕上がりの成果物だって仰ってましたし…デザイン技術の方だったんで。今回拝見するとすごい…細かいところにホワイトが入っていたり、1ミリ単位まで気を使われていらしたのかなぁと。

新谷_そうですね。トレーシングペーパーの厚いやつがあるじゃない。
信濃_はい。
新谷_で、トレーシングペーパーではなくて下が透けて見える…ラフ用の紙って言うのかな。
信濃_はい。

新谷_あれに…割と太めの鉛筆でバッとデッサンするわけですよね。で、描き終わったら、それをビッと破いて下に敷いて、次の絵を描くの。それを見ながら…トレースする形でまたデッサンするんですよ。

信濃_あ~!はい。
新谷_で、破ってまた下に敷いて、何べんもそれを繰り返しているわけ。
信濃_えーー!そうなんですか。
新谷_それでだんだん目の位置とかが決まってくるわけわけ。
信濃_えーー!そうなんですか。
新谷_そうなの。それを僕はずっと見てきましたから!自慢じゃないけど(笑)
信濃_うわぁ~!
新谷_飲みに行こうって言っても全然のってこないから、机の傍に立って見てた(笑)
会場_ははは(笑)
信濃_ははは(笑)むちゃくちゃ邪魔しているじゃないですか(笑)

新谷_お邪魔虫だから(笑)。僕が絵を描けるんだったら、彼、嫌な顔をするんだろうけど。僕は描けないから。素人が見ているんだからいいか、みたいな感じでしょうね。

信濃_先ほどお話を伺っていたら、多摩美の先輩にあたるわけですもんね。
新谷_そうそうそう。
信濃_それで原田先生が、新谷先生の学生時代の絵を覚えていらっしゃるというお話を聞いて。

新谷_こてんぱんにやられて。「なんすか、あれ?」って言われて。それ、言うか?お前、みたいな(笑)
卒展で委員長をしていて、準備委員長やっていたんですよ。だから100人以上の面倒をみて、展示場を探しに行かなくちゃで、大変ですよ。多摩美って構内の場所を貸してくれないから。で、新宿ステビルって今違う名前になっちゃったけど、ステビルっていうのがあったんだよ。出来たばっかりで、ステビルに多摩美の同級生が就職したんですよ。

信濃_へぇぇ。

新谷_だから「お前ちょっと話つけてきて」って言ったら、偉い人が「美大?う~ん、まぁ1回くらいいいでしょ!」って貸してくれたんですよ。それでそこに設営工務店を呼んで、パネルを掛けられるようにしてもらって。それを僕、全部現場で大将になってやってたんですよ。自分のね…作品なんかしてられないのよ、忙しくて(笑)

信濃_それ、ヤバい言い訳ということでよろしいでしょうか(笑)
会場_ははは(笑)
新谷_もちろん言い訳言い訳!(笑)言い訳なんだけどね、それで先生には※福田繁雄先生っていうのがいて、担当がね。
信濃_あぁ、福田繁雄さん。

新谷_福田先生には「3位取ります!」なんて言っていたのよ、大ボラこいて言ったのね。「やって御覧なさい」なんて言われてさ。結局、出来なかった(笑)言い訳(笑)それで、そのポスターを装丁のね、今やっている※菊地信義っていうヤツが…

※福田繁雄…日本を代表するグラフィックデザイナー。単純化された形とトリックアートを融合させた遊び心あるデザインで “日本のエッシャー”とも呼ばれた。
※菊地信義…2008年までに1万数千冊の装幀を手掛けた、装幀家。

信濃_菊地信義さん。
新谷_彼がレイアウトをして、僕は絵を描いただけなんですけどね。
信濃_同期なんですか?
新谷_同期なんだよ。大学入って…日記が、その証拠が残っているんだけど。4月29日の欄に…
信濃_凄い、日付まで(笑)
新谷_“多摩美の6年生”って書いてあるんだよ(笑)
信濃_あはは(笑)
新谷_“ただひとり、凄いのがいる”って菊地の名前なんですよ。“菊地信義という”って書いてある。
信濃_へーー!新谷先生の日記に?
新谷_自分で書いてる、その日に。発見したのね、菊地信義って。作品見て知ったの。
信濃_ほぉーー!
新谷_作品見てコイツは凄いって思ったんだよ。色面構成でね。
信濃_はい。

新谷_モノクロなんですよ。あいつ今でもクロしか着ないけど…当時からクロなんですよ、クロシロなの。…それでクロシロで構成やってってて、気に入っちゃって。その時から友達で。で、あいつ、家を飛び出して俺のところずっと居候していて。

信濃_そうなんですか?
新谷_二人で一緒に住んでいたんですよ。
信濃_へーー!

新谷_そんな時期もあったくらい仲が良かったので。で、彼は途中で「多摩美に教わることは何もない」って、偉そうなこと言っちゃってさぁ(笑)中途退学しちゃったんですよ。それで親父にめちゃめちゃ怒られて勘当になっちゃったわけ。それで俺のところに布団を運んでさ。
信濃_そうなんですか?!
新谷_本格的に同棲状態になっちゃった(笑)
会場_あはは(笑)
信濃_あはは(笑)すごい。それが今では、書籍の大御所、かたや雑誌の大御所。
新谷_いや、その頃、二人でまだ「将来何をやろうか」と悩みに悩んでいた時代で。毎晩二人で涙を浮かべて話しているんですよね。
信濃_へーー!
新谷_それで、消去法?あれは、和田(誠)さんがやる。これは亀倉(雄策)先生がやる。これは田中一光先生。全然、道が全部ふさがっているわけ。
会場_あはは(笑)
信濃_あはは(笑)
新谷_入ったって駄目だぞ、入れないぞ、と。それでずっとやっていくと「雑誌はあまりないんじゃない?」とかね、「書籍もそんなにないね」「こっちだな、道は!」とか言って。

信濃_へー

新谷_二人でこの道を行こう!ということになった訳。俺は雑誌がいい、と。彼は単行本がいい、と。「合っている、自分には!」とかね。何もやっていないのにね、偉そうに(笑)

信濃_ははは(笑)若者の特権というか(笑)

新谷_そうなのよ。…それで大学の方では、博報堂の就職試験を受けろって言われてね。で、博報堂を受けたんだけど、いいところまで行っていたのに…最後に性格テストがあって。

信濃_性格テスト…

新谷_うん。こんな、分厚いやつ。で、箇条書きになっててさぁ。「こういう時はどうしますか?マルをつけなさい」という問題で「何も考えずにさっさとやってください」ってあるのよ。「誰々がこう言った時、あなたは怒る、怒らない、相談する」なんとか、って書いてあるわけよ。それにマルをパッパパッパつけていたわけ。

信濃_ははは(笑)
新谷_それで性格をテストするというのね。途中までやったんだよ。…頭にきちゃってさぁ!
信濃_あはは(笑)
会場_あはは(笑)

新谷_「ふざけやがって、馬鹿にしているのか!」って(笑)。それでガーッと立ち上がって逃げてきちゃったの(笑)で、屋上行ってタバコ吸っていたの。当時、タバコ吸ってたからね。で、そしたら事務の人が「もういいんですか?」って。

信濃_あはは(笑)

新谷_「すみません、ああいうの駄目なんですよ。」って言ったら「分かりました、ではこれを」って。「何ですか?」「お車代です」って言われて、500円…100円札5枚入ってた(笑)そんな時代よ。

信濃_へぇ…
新谷_それで(学校の)事務局行ったらえらい怒られてさ。「後輩はどんな迷惑すると思っているんだ、お前!」って。
信濃_あぁ、多摩美ですもんね、そうですよね!
新谷_「お前にはもう、世話をしない」って言われてさ。、!「すんません!」って謝ったけど。ダメで。
信濃_へぇ…
新谷_まぁ、いいんだよね。菊池は「いいんじゃない、フリーでやれば」って。それでフリーランス(笑)
信濃_あはは(笑)そうなんですね。
新谷_それで菊池が仕事を取ってくるんですよ。
信濃_へぇー!
新谷_あいつは広告代理店で仕事していたから、ADの。それでラフの仕事とかさ、イラストレーションの仕事を取ってくるの。
信濃_はい。
新谷_あいつが夜の9時半頃に帰ってきて、朝までに仕上げておいて、朝会社に持っていくんですよ。
信濃_へぇー!
新谷_で「おーいギャラ出たぞ!」と言って小遣いみたいなのくれるんですよ。
信濃_ははは(笑)
新谷_それで部屋代払ってさ、残った金で風呂入ったり飯食ったり、これいいなって思っていたのよ、いい生活だわって(笑)プータローだろ?(笑)
信濃_一応家主ですけど(笑)
会場_あはは(笑)

新谷_そしたらある先輩が…福田先生が心配していて。「あいつ、博報堂を蹴って…」って、いや、蹴ってないんだけど(笑)
「一人でやっているらしい。あいつしかフラフラしているヤツいない」って。「お前、就職しろ」って。先生が言っているからしょうがないと行ったんですよ。ある、カード会社にね。

信濃_はい。

新谷_それで、そこ行ったら「新ちゃん、今日昼からすげぇもん来るぞ」「天才だぞ」「見たこともない人だぞ」とか、そんなこと言うのよ。「そんなやついるのかな」と思ったわけ。それが堀内さんだったの。

信濃_ああぁ!なるほど。
新谷_現われましたよ!
信濃_堀内誠一さん!
新谷_見た瞬間、結構…歳が上だなと思っていたのんだよね。もっと上の人かなと思ってた。眼がギョロっとしていてさ、鋭いんだよ、これが(笑)
信濃_へぇ…
新谷_その頃堀内さんが一番忙しい時代でしたね。それで堀内さんとの関係が始まって、堀内さんが原田治っていうのを発見したって言ったらヘンですけど…。
信濃_ああ、そうですね。

新谷_24歳で堀内さん、ADをやっていました。15歳で伊勢丹の宣伝部に入れられてしまった、母親にね。母親が15歳の時に彼を連れて行って「この子使ってください」って(笑)

信濃_あぁそうなんですね?
新谷_お父様がデザイナーだから…どうも知っていたみたいよ。「預かります」って預かって。伊勢丹の宣伝課で大勉強したみたいです。だからイラストレーションも何から全てそこで勉強して。

信濃_そう考えると福田繁雄さん、堀内誠一さんの中からはじまり、そこで新谷先生と菊池さんの繋がり、K2さんからまた紹介していただいて原田先生に繋がりと…。今となったデザイン史に残るような人たちばかりですけど、当時はみなさん…まだ20代、30代と若い人たちばかりで。

新谷_そうなんだよ。

信濃_原田先生は新谷先生より年下ですけど、生意気なというか、「新谷さんの絵は酷かったなー」って言えるような関係は、後から…?
新谷_随分後。仲良くなってからですよ!まさか、若い頃に言ったりしない(笑)
信濃_どのあたりからこう…飲みたいなと思った時に、原田先生の事務所に行ったりの関係は…?

新谷_それは…だいぶ経ってからでしょうね。若い時はね。どこか、二人で飲みに行ったのかな、地下鉄でね。雑誌の『an・an』の中吊りがいっぱいぶらさがってたの。で、僕がやってるわけですよ、その中吊りをね。これはこういう特集だなぁとか話してて。「キミの名前を中吊りに、終いには30センチ位の大きな字で載せるようにするからね」なんてキザなことを言っているわけ(笑)

信濃_ははは(笑)

新谷_「あ、そうですか」って言われて、全然興味ないんだよね(笑)でも、『an・an』ではだんだんと(原田治の名前を)大きくした。あの…ガイド&ショッピングっていうページを、堀内さんが最初から「お前やれ」と。僕が担当だったのね。編集が※淀川美代子っていう人で。

信濃_あぁ!

※淀川美代子…『an・an』『olive』『Ginza』などマガジンハウス社の雑誌で編集長を歴任した編集者。

新谷_その人が編集で。それで僕がデザインで、イラストレーションが原田治で、文章も淀川さんの、三人ですよ。
それで…僕は最初からイラストレーターを一人つくらないと本は売れないかもしれないという、全部をタレント化したいというのがあったわけですよ。

信濃_あぁ!なるほど。

新谷_スタイリストをタレント化したい。ライターをタレント化したい。原田くんも当然そうで。僕の好きな絵を描く人だから、コイツを世に出そうという気があったの。それでだんだんだんだん大きくしていったわけ、彼の名前を。“絵:原田治”なんだけど、最初は24級…(※24級は文字の大きさ)って分からないかな。5mm位だったのを、最後は15mmくらいに(笑)。

信濃_ははは(笑)
新谷_すげーデッカい文字で入ってるわけ(笑)原田治のページみたいだなって(笑)
信濃_そういう…職業自体を、格好良いタレント化していこうっていうのは新谷さんの…?
新谷_違う違う、堀内さんが考えた。
信濃_堀内先生が考えた…?へぇ…
新谷_堀内さんはスタイリストっていうのも、まだ『an・an』を作る時に、そういうことをする人の募集ページを作ったことがあるの。
信濃_あぁ…

新谷_大橋歩さんに描いてもらって、例えば“調理担当の編集者”文章ばかり書いている“ライター”、“カメラマン”、“イラストレーター”、10種類くらいかな。スタイリストもいる。「そういう人が必要ですよ、だからあなたもなりませんか?」というページを作ったわけ。これが夢のようなんだよね。

信濃_へーー!そうですね!

新谷_俺がやってるデザインなんて夢みたいだな、と思ったよ(笑)現実にはいないんですよ。ひとりもいないんです。堀内さんが考えてくる。そしたら、 “募集”ってやったら全国から履歴書が山のようにきた!

信濃_ふふふ(笑)
会場_ふふふ(笑)
新谷_それで玄関にダンボールでドーっと積んであるわけよ、本当に。だけど嘘をつかなきゃ…(笑)嘘というかねぇ…
信濃_嘘なんですか?(笑)
新谷_だってねぇ…北海道から手紙もらったって、できないでしょ!?現実に。
信濃_あぁ、そういうことですね!
新谷_でもやっぱり“スタイリスト”なんて言われると「素敵」って思うのよね。
信濃_思いますよね!

新谷_コーディネイトを、スタイルを考える人でさ。やってみたい!と思うわけよ。「これぞ私の天職!」って!それで来るわけじゃないですか。でも嘘っていうわけじゃないけど(笑)

信濃_あははは(笑)
新谷_本を売るための手段ですから。当時はあったんですよ。嘘の募集やなんかを書いて、みんなを喜ばしてね。本を売ろうっていう…そういう、けしからんのがね(笑)
信濃_「あれは嘘だったのか!」と思っていらっしゃる方いるかもしれないですよ?(笑)
会場_あはは(笑)
新谷_本当本当(笑)でも、実際にそれで来てもらった人もいるのよ。中には門口にずっと立っている人もいましたよね(笑)
信濃_あはは(笑)
新谷_見上げて。「あれが、編集か~」と田舎から出てきてね。本当に田舎から出てきた人いっぱいいましたよ。
信濃_一生を賭けて出てきたんですね?
新谷_「ちょちょちょっと、別のところ行って話しましょう」って。「これ帰りの汽車賃。お母さんには言ってきた?」とか言って(笑)そういう子を何人か目撃しました。

 

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