ちょっとPARCOのCMなんかあるので見てみたいと思います。
(コマーシャル映像はYouTubeへ)
「これ山口はるみのイラストが出て」
「これはRCサクセションがコマーシャル出て」
「PARCOのグランバザールのコマーシャルですけどこの中身の説明はない」
まぁこういう感じに何が売られているのかとか、どういう催しがあるのかっていう説明はなく、完全に抽象的なイメージだけで語って終わるというコマーシャルや、あるいはポスターが世の中に氾濫する。これ、有名なんでちょっと見てもらおうと思いますけどこれ、内田裕也がハドソン川を泳いでいるんですけど…
最後にね、PARCOのロゴが入ってだいたい終わるんですね。
こういう背景がまずあったんですよ。更にその背景に何があったかっていうと経済の高まりですよね。80年代に入ってすぐに経済がのびた訳じゃないですけど…
最初、ものすごく景気がよくなって、また少し停滞して。また80年代後半からぐーっと伸びてみなさまご存知かと思いますが、バブルの頂上までいくという経緯が一応あります。その経済の背景に、企業が広告資本、広告にかなり多くの投資、予算を使うようになり、それでこういうコマーシャルができてきたと。まったく費用対効果が見込まれていないような、今では考えられないようなコマーシャルが沢山出てきたんですね。
80年代はそういう経済の高まりだったり、何かこう…自由闊達な雰囲気、結構大きいのがやっぱり…経済大国になってアメリカに追いつけ、追い越せだったのが、いきなり、その、GNPでは特になんてことないんですけど、世界的な経済大国になったせいで追いつけ、追い越せ感覚がたぶんなくなっちゃったんだと思うんですよ。
そうなるとどうなるかっていうと、いろいろな実験が世の中で起こっていくと。お金を沢山使って、さっきも言ったように広告だと費用対効果が見込まれないような、そういうものが、どんどん発信されていく。そんな中で80年前、70年代の終わりから80年代にかけてイラストの分野もいろんなものが出てくる。漫画とかアニメとかそういうものも含めて、そういったものが沢山出てくるんですね。
これ、今、僕の主観なんですけど、ちょっとその辺をなぞって見てみようと思うんですけど、例えばこれ、吾妻ひでおってひとなんですけど漫画の世界で『ふたりと5人』この人結構重要だと思うんですけど、その後の”オタク”と言われるカルチャーがあるんですけど、たぶん一番最初に僕、何かを感じたものだったと思います。
そういうものが80年代に入ると情報誌になっていったりする。これ『漫画ブリッコ』っていうんですけれどね、こっちが創刊号でこの表紙が南伸坊って人が描いているんですけどこの誌上で中森明夫っていうライターが”オタク”って言葉つくるんですね。で、編集長の大塚英志とふたりでオタク論争みたいなので盛り上がる等の雑誌です。
それから、スペースインベーダーっていうのが出てきて、これ高校時代ずいぶんハマった覚えがあります。部活やっていたんですけど、部活が終わった後に高校から家に帰る途中で必ずインベーダーやってた。っていう記憶があります。
それから山口はるみのPARCOのポスターが、これ…ひとつの高まりだと思うんですけど、そこのポスターが(笑)そのとき、千葉に住んでいたんですよ。習志野に住んでいて、津田沼のPARCOでこのポスター見たんですよね、1978年当時。で、1,2分ちょっとこの前から動けなかった記憶があったりします。
更に、漫画の世界から大友克洋というひとが出てきてですね読み切りで『FIRE BALL(ファイヤーボール)』っていうのをね描くんですね。『FIRE BALL(ファイヤーボール)』は『アクション』かな…『アクション』って雑誌の読み切りで。
大友克洋って名前知らなかったんですよ。知らなかったけど、すごい漫画が出たっていうことで、その雑誌をぜんぶ切り取って1ページ1ページ破いてそれをホッチキス止めをして、それを学校に持ってきた人がいて(笑)それをみんなで回し読みしたんですよね(笑)。これ一体なんなんだろう、この漫画一体何か、みたいなね。
で、並行してちょっとここに資料はもってきていないんですけど『スターログ』って雑誌がSF雑誌があってそこにメビウスっていうフランスの漫画家が連載はじめて。
大友克洋は、まさにその影響なんですけどそれもすごくビジュアルとして印象に残っています。
あとはリアルイラストなんですが、滝野晴夫ってひとが『地獄の黙示録』のポスターを描いた。これは世界的にオフィシャルなポスターではないんですけれどもデザインしたのが石岡瑛子という人で、このあと監督のコッポラに呼ばれて石岡瑛子がアメリカに行くという最初のきっかけになった作品です。僕、これも相当…広尾の日比谷線の駅の構内で見たんですよ。それでやっぱり、かなり長い時間毎日くぎづけになった覚えがあります。
それから『情熱のペンギンごはん』っていうのが単行本で出て、これ単行本で初めて読んだんですけど実は『ガロ』っていう本で連載は既に始まっていたんですね。それが纏まって、一冊に纏まって『情熱のペンギンごはん』というものになって、これがやっぱり誰かもってきたひとがいてそれをみんなで回し読みするという。
これは…予備校のときだったと思いますね。恵比寿予備校に通っていたんで。そのときにこれ見て衝撃を受けて。湯村輝彦の名前をそのときまで僕知らなかったんですね。けっこうイラストファンだったんですけど、湯村さんの名前…わりと80年…このペンギンは知らなかったです(笑)
相当これ見て驚いて…で81年かな?『てる100%』って展覧会をやってそれは見に行けなかったんですけど、湯村輝彦の大きな展覧会だったと思うんですけれども…そういうのがあった記憶があります。
で、同じ80年ですけれども『伝説巨人イデオン』って漫画があって、これはやっぱり作画やってた湖川友謙っていうアニメーターにも相当影響うけたのかなぁ。
更に永井博さんのジャケット有名ですけど、大滝詠一の『A LONG VACATION』が発売されて、これはですね(笑)カセットに録音してきた友達がいて、それをみんなで回し聴き…今度はカセット回し聴き(笑)して、すげぇなって思って聴いていました。ジャケットはでも知っていたのかな…。ジャケットなんで、レコードじゃなかったけどジャケット知っていた?あ、カセットのラベルで初めて見たってことかな?この間、それを担当した永井博さんにヒアリングしていろんなエピソード聞きましたけど、今日はそういう時間ないので…。
で、もう最後ですけどナムコの『ゼビウス』を代表するナムコのゲームビジュアル、後、音楽ですね。…の活気というのがね…出てきたということになります。
ということは80年代に入って、あるいは80年代ちょっと前の70年代辺りから、すごく中心になるビジュアルというのがなくて、一体世の中どうなっているんだろうってすごく思った頃があるんですね。
イラストレーションはこうだとか、まんがとかはこうだとか、芸術ってこういう感じじゃないか?とか。芸術のことはそんなに詳しくは、この頃はなかったので、まぁこんな感じだろう、っていうのはあったんだけれど世の中そういうものが全部クロスオーバーして、様々なビジュアルが氾濫したっていう覚えがあります。
で、こういうメディアのイメージがイラストレーションに影響すると。
まさに多様化、多種多様なビジュアルがイラストレーションに影響しイラストレーションのほうも、それをひっさげて世の中にアピールしていくようなそういう時代になっていったと。まぁ70年代を通して大衆化していくということですね。
これ、広告デザインという特権的な場から降りてと書いたんですけど。そもそもイラストレーションの発祥の場は、日本のイラストレーションは広告界から始まっているので、それが雑誌とか大衆的なメディアによってどんどん広がっていくということになるんですね。それが大体60年代〜70年代の時で。
で、70年代はどちらかというとレコードジャケットかな。
まぁ東京イラストレーターズクラブというのが実はあってですね。それが1964年にできるんですけど、そこはかなりイラストレーションという言葉を、世の中に広めていくということにはなるんですけど…。それだけだと、こんな広まる訳でもないんですね。やっぱり雑誌、ポスター、様々なメディアによって広まっていくと。ちなみに挿絵はイラストレーションより前からあったんですね。そこはまたちょっとポイントなんですけどね。
挿絵っていうか文芸小説の装丁とか、挿絵とかね、それはあったんですよ。それはあったのに、イラストレーションが新しかったっていうことなんですよね。で、70年代の終わりにコマーシャルフォトを出していた玄光社がイラストレーションっていうモク、これはコマフォトという別冊でこういうものつくるんですね。
表紙が山口はるみさんですけれども。で、ほどなく『イラストレーション』っていう雑誌が創刊されると。
いよいよイラストレーションというものが、かれこれ一般化して、すごくプロフェッショナルな分野もプロフェッショナルな領域としてのイラストレーションもフォーマーして、そういうイラストレーターたち…イラストレーターとかイラストレーションが市民権を得て雑誌が作られるまでになり、その雑誌が売れるようになっていったと。
で、江口寿史がですね、漫画家の江口寿史が2014年こういうツイートしていて面白いんでちょっと持ってきました。江口寿史、知らないですよね?今の大学生(笑)
しょうがないので今資料用意したんですけどここにですね、こういうふうに書いてあります。
今日(こんにち)のイラストレーションと玄光社に対する漫画家、江口寿史さんの発言
「それにしてもイラストレーション誌。登場している名前は全て漫画家。」
まぁ2014年くらいのツイートなので『イラストレーション誌』が今イラストと呼ばれているコミックとかアニメとかの一枚絵、キャラ絵、的なものをイラストとして認知し、イラストレーション史でそれが取り上げられるようになった時に、当の漫画家の江口寿史がこういうことを言っているんです。
「チョイスの審査員も俺て。コミッカーズ化してないか笑RT」
っていうふうに笑っていると。コミッカーズっていうのは角川書店から出ているまんが、専門書…あ、コミッカーズ違う!美術手帖から出ている、美術出版社から出ているアニメ漫画の専門誌だと思うんですけど、ついにイラストレーション誌もそうなってしまったんじゃないかっていうのを言っているのが面白いんですけど。
そして
「同業者が自分を含め「絵」の面でこの雑誌に取り上げられるのはもちろん嬉しい事だが、もっとイラストレーターの方々からの刺激を受けたい、と、この本の1979年の創刊号からの愛読者でありイラストやデザインに多大な影響と刺激を受けてきた自分としては正直思うよ。」
ということを吐露している訳ですね。そこに、中村佑介というイラストレーターがツッコミを入れるんですけど、
「当時はまだ、60代からの「イラストレーション」という分野がとても刺激的だった時代が続いていました。時代のトーンのようなものを代表するようなイラストレーターが毎年のように登場してきて目が離せなかったのです。」
とね。
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