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PALETTECLUB特別企画 原田治のイラストレーション展

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トークショー出演者プロフィール紹介。

都築 潤(イラストレーター/デザイナー)
1962年、東京出身。1986年、武蔵野美術大学卒業。イメージフォーラム中退。日本グラフィック展、日本イラストレーション展、ザ・ チョイス年度賞、年鑑日本のイラストレーション、毎日広告賞、 TIAA、カンヌ国際広告祭、アジアパシフィック広告祭などで受賞。主な仕事に、TVドラマ「ギフト」「人にやさしく」のタイトルマーク、日本IBM、ナイキジャパン、日本HP、スバルのWeb広告、日清紡、東海大学のWebコンテンツ、クボタ、三井物産、大塚製薬の新聞広告の他、書籍や雑誌のカバー、ポスターのイラストは多数におよぶ。2001年から「絵一般」についてのトークイベントを定期的に実施。美術出版社「日本イラストレーション史」執筆、監修。多摩美術大学非常勤講師。東京工芸大学、創形美術学校、桑沢デザイン研究所でも授業を担当。近年開催の展覧会は、2010年個展「ニューエイドス」、2013年「都築潤×中ザワヒデキ」。

前回の続きから〜湯村タラさんは湯村輝彦さんのお奥さんですね。かわいいキャラクターなんですけど、湯村さんいわく「最初、いわさきちひろのような絵を描いていたので、それを俺が鍛えて直した。」と言っています。いわさきちひろみたいな絵描いていたのに…湯村さんによって違う方向になったという感じです(笑)

それから太田蛍一もやっぱりビックリハウスで描いていて、僕が衝撃だったのは『少年ホームランズ』という、これはイギリスの音楽系のジャケットだったと思うんですけど、すごく衝撃を受けました。『ドグラ・マドラ』のポスターも描いていました。『ゲルニカ』というグループがあります。戸川純がボーカルのグループで、上野耕路が曲を作り、イメージビジュアルを太田蛍一が担当しているというユニットです。法政大学へ『ゲルニカ』のコンサート観に行った覚えがあります。今言わせるとあれはすごい「伝説のライブ」だと、あとから人に言われたんですけど、それを観に行っているんですね。『ゲルニカ』だけじゃなくて、『JAGATARA』とか、それから『遠藤ミチロウ』とか。素晴らしい一夜でした。オールナイトで観に行ってきました。1980年代音楽シーンが凝縮したような、伝説のライブでした。

中村幸子、この人もある意味天才というか。水彩画で、非常に品性のある風景を描くんですね。『ミンボーの女』は、合わせて2枚の原画描いたらしいんですよ。監督の伊丹十三ではなくアートディレクターに呼ばれて、絵を描いてくれって言われたその目の前で、3時間で2枚描いたそうです。『スーパーの女』は打って変わって水彩画というよりは、クリアなキャラクターで描かれています。

伊藤桂司さんは、コンペで日本グラフィック展というのが出てくるんですけど、それの新人作家賞を受賞したんですね。ただ、それより前の東京ファンキースタッフ80年代初頭に、湯村さんところに出入りしていたそうです。

さて『ビックリハウス』ですが、今度はその『ビックリハウス』からデビューしたプロのイラストレーターの話ではなく、投稿コーナーの話です。

『ビックリハウス』って、パロディの雑誌なんでいろんなパロディがあって、「御教訓カレンダー」はカレンダーのパロディだし、暦のパロディだったり、「ヘンタイよいこ新聞」もパロディなんです。ビジュアルのパロディとして始まったんですね。それが『スーパーアート・ゴクー』という別冊に70年代後半から掲載されるようになる。なんのパロディーかというと、映画のポスターとかチラシです。80年代近くになると映画のシーンをそのままレイアウトに使ったりします。。そいういうものを全部合成して、改版、改ざんしてパロディをつくる、というのがあるんですね。それが『日本パロディ展』というのにつながるんですね。

その『ビックリハウス』から『スーパーアート・ゴクー』という別冊が出てそこで年に1回JPCというタイトルで『日本パロディなんとか』大賞的な形で発表される。それがすごく人気が出ました。いろんなポスターを、その当時の80年代のポスターをパロる、あるいはポスターだけではなく、古代エジプトの壁画だと思うんですけど、あの独特の神様などの絵の鼻のところに洗濯バサミがついているんですよ。それでシンクロナイズドスイミングとか言ったりね。そういったものが流行ると。岡本太郎がトンカチもって殴ろうとしていたり。「先生攻撃」という有名なコピーがあるんですけど、宇崎竜童みたいな人が制服を着て、先生を攻撃する意味の「先生攻撃」に変えたりとか。当時スーパーリアルのブームがあり、エアブラシというもをいろいろな人が使いだしていたというのが、この流れをつくったひとつの要因だとも思います。写真をモチーフに再構成していく、こういうような仕事と、パロディが合致したということです。

ちなみに…パロディでもパフォーマンス部門というのができて、そこから大川豊、大川興業というのが出てきました。お笑い?いや、お笑いじゃないんですけど(笑)。僕、大川興業好きで2回くらいライブ観に行ったことあるんです。

とにかく『ビックリハウス』でそういうことがどんどんどんどん流行っていくんですね。パロディ展が流行って…榎本了壱さんの話ですけど。そのパロディ展に出展される作品というものの技術とか、あるいは感性がどんどん高いものになっていっている、これはパロディを外したとしても素晴らしい表現作品が集まります。鼻が効くというか時代に対して本当に敏感だと思うんですね。その「パロディ展」というものから、もうひとつ本格的に真っ向からデザインやイラスト、絵画などを審査するものが生まれました。それが『日本グラフィック展』です。

しばらくは『日本パロディ展』と『日本グラフィック展』は3年間くらい並走するんです。そのうち『日本パロディ展』がなくなって『日本グラフィック展』が残る。その最初の大賞を伊東淳という人が取ります。それが、今思えばちょっとオタクっぽいというか、かなりアニメっぽい絵なんですけど。伊東淳がアニメっぽい気質だったから、と僕は思っています。

最初は雑誌上でやっていたのが、PARCOでやるようになって、それを観に行っていたんですね。日本グラフィック展の第一回と第二回は観に行っています。吉祥寺のパルコかどこかでやっていて。第二回は渋谷PARCOだったかな。応募作がほぼ「スーパーリアル」だったんです。「スーパーリアル」って言い方、説明しないと分からないかもしれないですね。PARCOのCMで観た山口はるみさんのようなイラストです。「スーパーリアル」だからといって、写真のように、本当に区別がつかないまでリアルっていう訳じゃないんですよ。

「スーパーリアル」というのはエアブラシがもたらした表現で、エアブラシとやっぱりアメリカのポップアートかな。アメリカにも「スーパーリアリズム」っていう動きはあるんですけれども。むしろそれよりもポップアートの影響受けているのかな、と思うんですよね。その「スーパーリアル」の影響があったせいで、イメージ的に「スーパーリアル」が占めていて、中に忽然と伊東淳の作品があったんですね。これは今でも語り草じゃないかな。

はい、そして、いよいよ『日本グラフィック展』が始まり80年代コンペブームが始まります。『日本グラフィック展』以外にいったい何があったかというと『JACA日本イラストレーション展』というのが1982年に始まって、イラストレーション誌の『ザ・チョイス』がが1981年に始まります。2年分の入賞者をまとめて1982年にグランプリを決めます。なので、82年というのが非常に重要な年になってくる。ちなみに『ひとつぼ展』というのが後発で、これが1987年、88年くらいに始まるのかな。それが今の『1‐WALL』というものに変わっています。今もリクルートがやっている『1‐WALL』というのが非常に80年代のコンペの雰囲気というか、本質的な部分を引き継いでいると僕は思うんですね。

1982年、重要な年のグラフィック展の大賞に日比野克彦が選ばれます。この人はかなり重要で、日本イラストレーションの中興の祖というか。80年代が日本のイラストの一番盛り上がった時期だ、というふうに言われたりするんですけど、僕はむしろ頂点に達したのって70年代だと思っていて。80年代になるとイラストレーションは、あまりにも沢山のビジュアルが世の中に出てきて、多様化され、基準がなくなっていって、それとともに大衆を引っ張っていくイラストが不明快になっていったと思うんですね。

そこでPARCOが牽引したイメージ広告の時代になり、実験的なビジュアルというのが持ち上げられて、1982年に日比野克彦が出てきた。これがね、イラストとかデザインのカンフル剤のような役目をして、下に見られつつあったその世界をまた盛り上げるようになったんじゃないかな…という読みを僕はしています。

日比野克彦は東京芸術大学を卒業後、『ダイアモンド・ママ』という展覧会を80年にしています。僕は観に行ってないんですけど、友達の家に『ダイアモンド・ママ』のDMがあったんですね。出品者を見たときに日比野克彦の名前ももちろんあったし、たにぐちやすひこや内藤こづえ、タナカノリユキといった名前がありました。その後『グラフィック展』を中心に大活躍する人々が集まった、 “伝説のグループ展”ってやつですね。

第3回の『グラフィック展』の大賞を日比野克彦がとる。そして第1回の『日本イラストレーション展』さっき紹介した『JACA』。『JACA』の大賞も同じ82年に受賞する。イラストレーション誌が2年間ためた入賞者から大賞を選ぶ『ザ・チョイス』でも、大賞を日比野克彦がとる。1年間に大賞3つとったら、黙っておかないでしょ、マスメディアがね。ついでに言えば、次の年の『日本アートディレクターズ』の最高賞もとるんですよ。これは、大ごとなんですよ、本当に。

日比野の出現と共に、『日本グラフィック展』が、ここポイントなんですけど、イラストレーションの枠を超えて日本のデザイン、イラストも、アートも…。アートといってもその頃いろんな呼び方があるんだけれども…。美術的なものも絵画的なものも枠を超えて、クリエイターの登竜門になっちゃうんですよ。

 

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